2021.0307

 身体的な障害を持った人と接する時どう動けばいいか未だわからない。さりげなく、何でもないことのようにサポートする以外何も出来ないのが悔しい。それだって上手く出来ているかわからないが。

 聴覚障害を持ったお客さんが二度来たことがある。数年前に初めて来た際、耳が聞こえないというジェスチャーをしていたので接客したわけでもないが強く記憶に残っていた。補聴器はつけていたから全聾ではないのかもしれない。二度目は先日。伝えたいことを入力したスマホを見せてくれたがこのご時世の為(聾者や難聴者は口の動きで相手が何を言わんとしているかおおよそ判別するらしい)、咄嗟に出したOKのジェスチャーが何だか情けなかった。目元だけで伝わるよういつもよりオーバーに笑顔を作って頭を下げて、聞こえないかもしれないけど大きな声でありがとうございましたと言えたことは良かった。手話を覚えたいと思ったのはそれが初めてだ。でも聴覚障害を持つ人全員が手話を覚えているかと言えば、そうではないだろうし。いきなり手話をして、いや俺わからん…と思わせてしまうのもあれだし。もしまたあのお客さんが来たら、今度はありがとうまた来てねって紙に書いて伝えられたらいい。これは失礼に当たるのだろうか。

 たまにこういうことを考えるけれども、心のどこかで彼らを馬鹿にしたり見下したりしているんじゃないかって不安になる。彼らを無意識のうちに「自分より劣っている」から「気遣ってあげなきゃいけない存在」だとか思ってはいないか。わからない。思っていないと思っているけどこれは主観だ。怖い。無意識で人を傷つけるのが。私は確固たる意思の下でしか人を傷つけたくない。これを書くにあたって聾者という呼称は差別用語ではないのか?と調べたが、恐らく違うみたい。どこまでが配慮で、どこからが差別なんだろう。相手が差別だと感じた時点でそれはそうなってしまうのか。なるよなあ。今日も多目的トイレのドアの隙間から身体を捩じ込むようにして出ようとしていたおじいちゃんがいたからドアを押さえた。ありがとう大丈夫ですよ、と言われてしまった。正しい行動だったのだろうか。要らぬ手を差し伸べてしまった?

 

 セクハラについて考える。手をさわさわにぎにぎするお客さんとか、2人きりになった途端に笑えない下ネタしか言わなくなる上司とか。アーって思う。思うだけで顔には出さない(元から顔が動かないので正確には出ない)。コミュニケーションの一環?いや価値観のアップデート遅れ過ぎじゃん?やばくないすか?と思うが、彼らは私に優しい。だからそういうのを上手く飲み込めず咳き込んだり喉に違和感を抱えたまま眠る日があったとしても、引っくるめて甘受する。こういうところがまじで日本人だよなあ〜〜。アップデート出来ていないのは私の方かもしれない。他人に女性蔑視を許せとは言わないので、許す私を許してほしい。最悪な利己主義。いつだってそうだ。優しくするのは自分の為、許すのも自分の為、あれもこれも自分自分自分自分の為。巡り巡って私の大切な人達が遅れた価値観に傷つけられた時、私はまた自分の為に憤慨するのか?私が許した結果がそれに繋がっているのかもしれないのに。